目次−協力隊レポート

JOCV(青年海外協力隊)は定期的に活動報告を提出することになってます。
まぁ、人によっては出してない人もいたみたいです。

わたしは、僻地のど田舎が任地だったので、首都の隊員よりはのんびりしてました・・・
っということで、時間があったのでまめに、以下のような報告書を提出しました。

隊員活動報告書 (2000 January)

数日続いた寒波のあと、珍しく(日)の朝から好天気だった。沖縄と同緯度の南アジアのぎらつく太陽が久しぶりに顔を見せ、冬真っ只中にもかかわらず日向は暑いくらいである。

ひさしぶりの雨は少量だったが、
ここイブラプツァのふもと村のチィンチィビ村の近くのマンデチュウ河の水力発電所も影響を受けたらしく、AM10時頃から停電になった。
この発電所は表に“Friendship program BHUTAN & JAPAN”と書かれており中に入ると2基の小さな水力発電タービンが設置されている。良く見ると其の埃だらけのプレートの上に”クボタ鉄工株式会社“と刻印されている。そう、これは約8〜9年前、父の会社が作ったものなのである。

遠く日本を離れきてヒマラヤの麓の一小国、ブータンの原始林に覆われたジャングルの中の村においてさえ日本製の機器が静かに黙々と働いている……。
日本ではついぞ感じ得なかった。深い静かな”祖国“というものに対する畏敬の念を禁じえなかったのである。

私の任地のYebilaptsaの病院は今日も何時もの如くノンビリしたムードの中でゆるやかな時間が流れている。
約二年前、初めて任地に着いた時、余りの日本とは違う雰囲気に圧倒されて(感受性が鋭いせいもあるが)背中一面に蕁麻疹がができて、数日間悩まされたことがあった。感染性のものではなく、精神的なものだったのだろう。

ヒトはある種の限界状態に置かれると、普段経験し得ない事を感じると言うこと、日本の物質的に満たされた世界ではまるで真綿に囲まれているような中では感じる事のなかったmarginごときものを経験することが出来、己の心がどんなものか把握出来たところがあるJOCVにおける一つの収穫だったと思う。

元来私はよく”あせり“安い性格だった。何か得たいの知れない物に追いかけられているような感じ、それは「じぶん」がよく見えていなかったことに、一つは起因すると思う。

ブータンでもここ南の端の任地の村において暮らした日々は、私に「ゆったり」とした何かを与えてくれた。

初めのころ周りのブータン人を見るに付け「なんて働かないのんびりした、職場でも家でもまるで変わらないグータラなやつらなんだ」と、思っていた。(基本的なは今でもそう思う)

HPのスタッフを中心として仕事の後ブータン人の家に呼ばれて食事や地酒を飲んだりしてかれらの家族のことを少しずつ知るようになっていくと、基本的に貧乏子沢山で、ちいさな官舎の中で沢山のこどもがワイワイ騒がしい。

しかし年長の子は下の子をおんぶしよくお守りをしている。平均的に日本の子供より同令にしては小さな体で自分のからだの2/3位の下の子を背負って子守りする姿をしょっちゅう目にする。自分の両親までの子供のころの世代がそうであったような世界が、社会がここブータン、特に私の任地、首都から車で2日かかるrural remote placeにおいては当たり前の光景なのだ。

HPのブータン人同僚達も子供のころはおそらくこの様にして育ったのだろう、余り自分で子守りせずにこども同士でさせて自分は編物等をしている。”親になる“という事はそれだけで敬われる、というか長幼の序がはっきりしていて当然の事なのだ。

だから皆、20台前半という若さで結婚する。(しかし仏教国の寛容さの故か、離婚も多いが)

初めは未だ青二才のくせにこどもを作って、満足な収入も無いのに勝手に人口をふやしてdonationに縋って生きている愚かな国というイメージが在ったが、人類の本来の社会はこの長幼の序がはっきりした自然に年長者、親を尊敬する念が在り、それが宗教心を起こし貧しいながらも小国にも関わらず、仲良くおだやかにくらして居る理由なのだと思う。

ブータン人は友人の友人の………と、7〜8番目位は当人に帰ってくるくらいとても小さな社会で、国民皆知り合い―家族のような国なのである。

別面、狭い社会で窮屈な面もあるが、皆知っている田舎村のような国だから悪いことも出来ず、重大犯罪は少ないようである。
長いから、もどる〜♪

 
 

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